大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島高等裁判所岡山支部 昭和62年(う)164号 判決

主文

原判決を破棄する。

本件を岡山地方裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は検察官富村和光作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は弁護人水谷賢作成の答弁書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

第一検察官の主張の要旨

一  被告人は、昭和五五年九月二七日付けで窃盗二件(事務所荒らし)を、同年一一月一〇日付けで窃盗八件(車庫内や路上などに駐車中の自動車内からの窃盗)を、更に昭和五九年一二月二七日付けで右の審理中に犯した窃盗一件(事務所荒らし)をそれぞれ起訴され、併合審理を受けてきたところ、原審は、「被告人は、耳が聞こえず、言葉も話せない聴覚及び言語の障害者であり、しかも文字を読むことができず、手話も会得していないので、被告人との意思の疎通を図ることは困難であって、通訳人を介しても黙秘権の告知が不可能であるのはもちろん、裁判手続そのものに対する理解を欠いている。このような極限的状態においては、同時に刑事訴訟法が公訴の適法要件として本来当然に要求する訴追の正当な利益が失われている。したがって、本件各公訴については、刑事訴訟法三三八条四号を使って、公訴棄却するのが相当である。」旨の判断を示して、公訴棄却の判決を言い渡した。

二  しかし、被告人は、相応な社会生活を営んでいて、一般社会生活の対人関係において被告人との意思の疎通が可能である上、公判廷においても通訳人を介して相当程度の意思の疎通がなされているのであって、被告人が本件の審理を受けるに当たって、その行為の意義を理解し、自己の権利を守る能力を欠いていると見ることはできない。したがって、罪体に関する実質審理を終えている本件公判の経過にかんがみ実体判決をすべきであるのに、公判廷における通訳の困難性をことさら過大評価し、本件を極限的事例であるとした原判決には、被告人の訴訟行為能力や聴覚及び言語障害の程度についての事実を誤認し、誤った事実認定を前提に公訴を棄却した誤りがある。仮に、被告人が公判廷で行われている手続を全く理解できない状態にあるとしても、原審が公判手続を停止せず、刑事訴訟法三三八条四号を適用して公訴棄却の判決をした原判決には、刑事訴訟法の解釈適用を誤って不法に公訴を棄却した誤りがある。以上のように原判決には、事実に誤認、刑事訴訟法の解釈適用の誤りがあり、破棄を免れない。

第二被告人の能力

一  記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討するに、被告人の能力について、次の事実が認められる。

1  被告人は、耳も聞こえず、言葉も話せない。また、手話も会得していないし、文字もほとんど(数字や自分を含めた身の回りの人の名前などを除いて。)分からないため、被告人と意思の疎通を図るためには、被告人が知っている数少ない文字、数字などを紙に書いたり、身振り、手振りでするほかに方法はない。

2  しかし、右の方法による意思の伝達には限界があり、抽象的及び仮定的な事項など複雑な内容は、通訳人を介しても、手話を会得していない被告人に対して伝達することは、現段階においては不可能である。例を挙げると、「言いなさい。」「黙りなさい。」ということは伝達し得ても、「言いたくなければ、黙っていてよい。」ということを伝達することはできない。したがって、通訳人の通訳を介しても、黙秘権を告知することは不可能であり、また、法廷で行われている各訴訟行為の内容を正確に伝達することも困難で、被告人自身、現在置かれている立場を理解しているかどうかも疑問である。

3  しかし、被告人は、これまで社会内で独り暮らしをして生活してきた。すなわち、拾得した鉄屑を売却したり、鉄工所などに雑役夫として雇われ、ペンキ塗り、機械の掃除などの作業をして収入を得て自炊したり、身振り、手振りなど意思伝達の可能な範囲内で所持品を入質したり、飲食物を買ったり、食堂で飲食物を注文したり、ホテルに宿泊し、映画館で映画を見たりしていた。例えば、カメラを入質する際には、質屋で身体障害者手帳を示して、身元を証明した上、カメラを示して、身振り、手振りで入質の希望を伝え、相手の身振り、手振りと貸付金額を示す数字を書いた紙を見て身振り、手振りで承諾の返事をして金と質札を受け取る方法で目的を達成していた。

4  また、被告人は、本件以前に窃盗で検挙されたことが四回あり、うち二回は起訴され、有罪判決をうけ、そのうち一回は実刑判決であって服役しており、他人の物を盗めば処罰されることは分かっていたと考えられる。

二  以上のような事実関係に照らして考えると、被告人は、社会内で他人の介護を受けなくても生活することができ、善悪の事理弁識能力はあると認められるから、責任能力はあると考えられる。しかし、裁判手続の中で、訴訟行為をなすに当たり、その行為の意義を理解し、自己の権利を守る能力すなわち訴訟能力があると認めるには、極めて疑問が大きいと認められる(この意味において、原審において、直ちに実体判決をすべきであったとの検察官の主張は、直ちに採用し難い。)。

第三原判決の検討

一  原判決は、前記第一の一に記載したような理由で、刑事訴訟法三三八条四号により本件各公訴を棄却している。しかし、右の規定が適用されるのは、「公訴提起の手続がその規定に違反したため無効であるとき」なのであって、起訴状の瑕疵、親告罪における告訴の不存在など公訴提起の手続に瑕疵がある場合に限定されると解されるから、本件のように公訴提起の手続に何らの瑕疵がない場合にまで適用すべきものではない。このことは、現行法制の下では検察官は公訴権を独占していて、公訴の提起及び維持について広範な裁量権が認められていることからも裏付けられる。

二  これに対し原判決は、「本件のような極限的な事例においては、被告人に対する訴追の維持ないし追行は、相当性の点で救い難い影響を受けていて、同時に刑事訴訟法が公訴の適法要件として本来当然に要求する訴追の正当な利益が失われている。」旨を判示している。しかし、原判決の言う「訴追の正当な利益」の意味は必ずしも明確でないばかりか、原判決が本件が極限的事例であることの根拠として認定している事実は、結局、訴訟行為をなすに当たり、被告人には、その行為の意義を理解し自己の権利を守る能力すなわち訴訟能力が欠けていることを意味している。

このように、原判決の認定するような事由で訴訟能力を欠く被告人については、手続の公正を確保するため、刑事訴訟法三一四条一項を準用して公判手続を停止すべきであると考えられる。

三  弁護人は、公判手続が停止されると、被告人はおそらく生涯の間公判手続が停止され、迅速な裁判を受ける権利が侵害され、適正手続に違反するから、刑事訴訟法三一四条一項は適用されるべきではないと主張する。しかし、右の規定は本来、手続の公正を確保するため、訴訟能力がない被告人を保護する趣旨もあって存在する規定であるから、そのため訴訟が遅延することは右の規定がある程度予想していることであり、それが相当長期にわたってもやむを得ないと考えられ、それによって、迅速な裁判を受ける権利が侵害され、適正手続に違反することになるとは認められない。

もっとも、右の公判停止の期間が異常に長期にわたり、かつ、訴訟能力回復の可能性が全くないと認められる場合は、検察官が裁量により公訴を取り消し、これに基づいて刑事訴訟法三三九条三号により公訴棄却の決定がされることも十分考えられる。

四  してみると、原判決は、本件について刑事訴訟法三三八条四号を適用すべきでないのに、これを適用して公訴を棄却した点において誤っていると言わなければならない。

五  なお、付言すると、本件のように、社会内で独立して生活することができ、責任能力も認められる者が犯罪を犯した疑いがあるとして起訴されているのに、訴訟能力が欠けているとして公判手続を停止すると、被告人を有罪無罪の判決をしないまま放置して刑罰権の範囲外に置く一方(この点は、検察官が弁論において「原判決のごとき見解を押し進めると、被告人のような唖者は、刑罰の対象から除外されることになり、法の埓外者とせざるを得ないこととなるが、これは明らかに法の支配の理念に反するものである。」と指摘している。)、無罪の判決により名誉を回復する機会をも奪うのではないかとの問題は残る。刑事訴訟法三一四条一項により心神喪失の状態にあるとして公判手続を停止される者は、通常精神異常者であり、訴訟能力を回復しない限り、精神病院に収容されるなど強力な介護の下にあることが予想されているのであって、被告人のような理由によって訴訟能力を欠く者の存在を刑事訴訟法は予想しているとは考えにくい。つまり、現行刑事訴訟法には、被告人のように社会内においてある程度独立して生活できる能力を有し、いわゆる責任能力の欠ける状態にまで至らない者の公判手続に関する明文の規定が欠落しているものと考えられる。そこで、このような者に対する公判手続については、解釈によってこれを補うこととし、訴訟手続の枠のなかで被告人のための防御権を最大限保障しながら訴訟手続を進行させるといった解釈をすることも考えられないではない。しかし、黙秘権の告知を例にとってみても、被告人の能力上の問題から黙秘権の告知が不可能であるから、これに代わるものとして、弁護人が立ち会って、陳述を拒むべき事項かどうかを逐一被告人に助言することによって黙秘権の行使を補わせるしかないし、黙秘権告知以外の訴訟手続についても、被告人の防御能力が著しく低いのであるから、弁護人の訴訟活動と裁判所の後見的役割に強く期待せざるを得ないところ、黙秘権告知の制度が重要性を持つことはもとより、その他の各訴訟手続についても、単に解釈によって補うことは被告人の防御権、刑事訴訟手続の中で被告人が固有に有する権利を十分行使し得るか否かについて疑問が多く、結局、立法による解決に期待せざるを得ないと考えられる。したがって、このような場合においても、公判手続を停止するのは、やむを得ないところである。

第四本件についてのその余の問題点

弁護人は、弁論において、「被告人は、本件の捜査に当たり、逮捕の際に逮捕状の提示を受けておらず、弁解録取の手続に当たっても、弁解の機会を実質的に保障されておらず、弁護人選任権の告知、黙秘権の告知をいずれも受けていない。このような捜査手続きの違法と、その結果としての公訴の提起は、全体として公訴提起手続に違法があったものと評価すべきであり、刑事訴訟法三三八条四号により公訴を棄却すべきである。」と主張する。

原審及び当審で取り調べた関係証拠によれば、次の事実が認められる。

1  被告人に対しては、甲野鉄工所における窃盗未遂の容疑で逮捕状が発布されていたが、住居が不定であるので、その所在を捜査中、警察官において岡山市内の公園に居る被告人を発見したが、被告人は前記の障害者で逮捕事実の告知ができないため、被告人を取り調べた経験があるA巡査を呼び出し、被告人を犯行現場である甲野鉄工所に連れて行き、同巡査がその場で身振り手振りで逮捕事実を告げ、B巡査が逮捕状の緊急執行をした上、岡山南警察署に連行し、逮捕状を示したこと。

2  同警察署での弁解録取に当たっては、通訳人はいまだ選任されていなかったが、警察官は紙に図や仮名を書くなどして、被疑事実を伝え、被告人の味方になって話をしてくれる人という形で弁護人選任権の告知をしたこと。

3  検察官は、弁解録取に当たり、同警察署により逮捕の翌日選任されていた通訳人を介して被告人の弁解を聴いていること。

4  Aは、C巡査部長とともに被告人の取調べをしたが、その際、黙秘権自体の告知は不可能なので、被告人が思うように言いなさいということを身振り手振りで伝え、黙秘権の告知についても、できる限りの努力をしていること。

右認定の事実及び前にみた被告人の訴訟能力を併せると、被告人に対する捜査手続において、被疑者の権利ことに黙秘権、弁護人選任権の告知などにつき瑕疵があった疑いはなくもなく、これが証拠の証拠能力などに影響を及ぼすことは考えられないではない。しかし、捜査の手続に違法があるとしても、それが必ずしも公訴提起の効力そのものを当然に失わせるものではないことは、検察官の極めて広範な裁量にかかる公訴提起の性質にかんがみ明らかである(最高裁判所昭和四四年一二月五日第二小法廷判決、刑集二三巻一二号一五八三頁)。本件においても、捜査官らは、前に説示したように、被告人が前記のような身体障害者であることを考慮して、その権利の告知などのために苦心して相当の努力をしているのであるから、捜査の各手続が適法であるかどうかはともかくとして、公訴提起の効力に影響を及ぼすような違法があるとは認められない。

第五結論

以上説示したように、原判決は、刑事訴訟法三三八条四号により公訴を棄却することができない事項について、右の法条を適用して公訴を棄却したものであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

そして、本件の公判手続を停止すべきかどうかについては、原裁判所において、医師又はこれに代わる心理学などの専門家の意見を聴くなどして(刑事訴訟法三一四条四項参照)、更に審理を尽くすのが相当である。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三七八条二号により原判決を破棄し、同法三九八条により、本件を岡山地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 荒木恒平 裁判官 竹重誠夫 山名学)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例